国会図書館で命の洗濯について調べました!
- 2025年10月21日
- 読了時間: 3分
国会図書館で命の洗濯について調べていて一冊の本に出会いました!

命の洗濯
人は、命を生きるために生まれた。
けれど、いつしか私たちは生きることを
「こなす」ようになってしまった。
朝起きて、働き、誰かのために動き、
気づけば一日が終わる。
そのくり返しの中で、
ふと「自分」という存在を見失ってはいないだろうか。
命の洗濯とは、
本来の自分を思い出すための行いである。
それは、時間や場所を超えて、
誰の中にも流れている“いのち”という大河にもう一度つながること。
疲れた心や、くたびれた体を癒しながら、
“生きるとはなにか”を静かに見つめ直す行為なのだ。
私たちが忙しさの中で見失ってしまったもの。
それは「感じる力」である。
風のにおい、光の温度、人の声、肌に触れる空気——。
その一つひとつに、命の輝きがある。
命の洗濯とは、その輝きをもう一度感じ取ることにほかならない。
人は自然の一部であることを忘れてはならない。
山を眺め、風に吹かれ、水に触れるとき、私たちは本来の自分を取り戻す。
それが「命の洗濯」である。
静けさの中で、自分の心がどんな音を奏でているのかを聴くこと。
それは忙しさの中では決して得られない体験だ。
自然は何も語らないが、そこに立つだけで人は癒やされる。
人は一人では生きていけない。
心が疲れ切っているときでも、誰かの笑顔や優しさにふれた瞬間、
少しだけ光が差すことがある。
命の洗濯とは、そうした「人のぬくもり」を感じ直すことでもある。
感謝の気持ちは、失われた活力を静かに蘇らせる。
そしてその優しさの循環が、社会をやわらかくする。
過ぎ去ったことをいつまでも握りしめていると、
心は濁り、前に進めなくなる。
命の洗濯とは、過去を洗い流し、いまを生きるための行為である。
悲しみも、怒りも、恨みも、
流れにまかせて手放すとき、人は再び自由になる。
水が澄むように、心もまた澄んでいく。
命の洗濯とは、特別なことをすることではない。
生きていることそのものが、すでに命の洗濯である。
悲しみの中にも、喜びの中にも、
人は常に何かを感じ、学び、洗われている。
日々の生活の中で、呼吸をし、食べ、眠り、笑う。
その一つひとつが、命を整える行為である。
大切なのは、自分の命にやさしく触れること。
それが、ほんとうの「命の洗濯」である。
現代は、あまりにも多くの情報と刺激に満ちている。
人は便利さと引き換えに、心の静けさを失いつつある。
だからこそ、いま「命の洗濯」が必要なのだ。
忙しさの中で立ち止まり、自分の呼吸を感じること。
それだけで、人は少しずつ取り戻していく。
命の洗濯とは、心の澱(おり)を流し、
本来の自分を取り戻すための行いである。
それは贅沢ではなく、命にとっての必然なのだ。
こちらの文章は
明治45年3月に書かれた"命の洗濯"
関寛著 警醒社より抜粋しました。
お店のテーマである命の洗濯が少しでも沢山の人に知ってもらえたら嬉しいです。



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